2015年9月1日
(写真・文、 光岡主席研究員)
①「京都神田明神」
東京の「神田明神」、大手町の「将門首塚」は有名ですが、
その昔、奥州で敗死した平将門の首は京の都に送られ、晒されました、その場所が伝承されているのです。
現代京都のビジネス街「四条烏丸」から5分ほど歩いた所、江戸時代にタイムスリップしたような「膏薬辻子(こうやくのずし)」と呼ばれる小路の奥に「京都神田明神」があります。
ただの京町家ですが、ガラス戸越しに中を覗くと、祭壇があります。
ここから、東京大手町の「首塚」まで空を飛んで行ったのです。
空也上人が弔い、今に伝わりました。張り紙を見ると、東京の神田明神がここを維持管理しているようです。
”祟りを畏れた日本人の想いを伝えています。
京都神田明神
「辻子」は通りと通りをちょっとつなぐ道、
行き止まりの袋小路の「路地(ろうじ)」と異なります。
平安の昔から存在、 今でも名前の残るものだけで約100ケ所と言われています。
「辻子」を歩くと、古(いにしえ)が現代に続く、本当の京都を体感できます。
膏薬辻子(こうやくのずし)
②「鐵輪伝説」
謡曲「鐵輪(かなわ)」・・・自分を捨てた夫を呪い殺すため、深夜、頭に蝋燭を灯した鐵輪を乗せ、洛中から洛北の貴船神社まで往復26kmを「丑の刻参り」をした・・・おどろおどろしい千年前の話
・・・この女がかつて住んでいた洛中の場所(五条烏丸から北東に5分程度)、そして最後は、安倍晴明の調伏を受け、恨みを果たすことが叶わず、悲しく身を投げた井戸が残っています。
ごく普通の人家の門に注連縄が貼られています、足元を見ると「鐵輪跡」の朽ちた石碑、その門を入り不気味な狭い路地を辿っていくと行き止まりの右側に突然、祠と井戸が現れます。
(行き止まりの奥と左側は今も人が住む人家、玄関の引き戸から2m前は、祠と井戸という、何とも恐ろしい環境)、
今は枯れた井戸の覆いの上に「自由にお持ちください」と
「鉄輪の伝説」を記した紙が寂しく置かれています。ここの住所である「鍛冶屋町敬神会」が国文学者/相馬大氏に依頼し作成したもののようです。
死んだ女を痛ましく弔うのか?怖い怨念を鎮めるためなのか?長い歴史の中、町内会は今も何かを守っています。驚きです。
鐵輪井(かつては、“縁切り井戸”として有名だった)
路地の奥に井戸が
女を祀る祠
ここの訪問だけは、本当に怖かった。
現代京都のど真ん中の町家の路地の片隅で、今もひっそりと千年前の鎮魂が続いているのです。
帰宅時は、祟りが無いように、塩をまき、祓い清めました。
③曼殊院「掛け軸」
比叡山の麓、洛北一乗寺にある曼殊院は、現在の地でも450年の歴史を有する天台宗の由緒ある門跡寺院です、国宝/黄不動尊や古今和歌集曼殊院本、狩野探幽の襖絵、狩野永徳の障壁画、枯山水の庭園と、どれも必見、感動です。
観光客も少なく静かに縁先に座り庭園と東山の自然を楽しめます。京都散策にお勧めのお寺です。
曼殊院縁側と庭園
曼殊院参道
さて、ここから「怖~い京都」です。
お寺の中で僕の前を歩いていた年配の女性観光客2人がある“掛け軸”の前で「キャッ」と声を上げました。
追いかけその“掛け軸”の前に立つと、何と「二人の女の幽霊の画」でした。 何とも本当に怖~い画です。
国宝の仏様や美しいお庭を観てきた後では、思わず“ぎょっと”してしまいます。
今まで通り過ぎた部屋の仏像や古文書の前には「NO PHOTO」と張り紙がありましたが、この“掛け軸”には、「NO PHOTO」に加えて、「絶対に写真を撮らないでください、障りがあることがあります」・・・と、びっくりするような張り紙です。
帰ってから、インターネットで調べると、この画は、いつの時代どこで誰によって描かれたかも分からず、ですが過去色々な障りがあって、このお寺に納められたそうです。
「将門の京都神田明神」「鐵輪の井」を訪れた後だっただけに、背筋が凍りました。
本当に千年の都、京都は怖いです。
曼殊院十雪の間
曼殊院庭園