京都ミステリ-スポット 第23回 「西寺阯・羅城門阯・朱雀門阯」  (2016年 年末)

 2017年9月4日

 

(写真・文、 光岡主席研究員)

 

1. 西寺址

 

 794年の平安京造営と共に、京の南の入口“羅城門”を挟んで東西に「西寺」と「東寺」が、“国家鎮護”の官寺(かんじ)として建立され、国家行事の仏事を行った。
 この二つの官寺以外は平安京内に寺院を建立することは許されなかった。
 823年嵯峨天皇の時、西寺は“守敏”に東寺は“空海”に与えられたと伝わり、東寺は“空海”により民間色を強めるが、東寺より“格上”の西寺はその後も“官寺”の性格を維持した。
 990年の火災で大半の伽藍が消失、以降、何度かの再建・火災消失を繰り返したが、鎌倉時代初めの1223年の火災で残っていた五重塔も消失し、以降再建されることはなかった。

広い「西寺児童公園」の中央の丘に「西寺址」の碑があります。

「西寺址」の碑


 

 西寺の址は、現在の京都の碁盤の目の南西角の“西大路九条”の近く、「西寺児童公園(唐橋西寺公園)」の中の小高い丘の上に寺の柱の礎石を残し、石碑が立っています。
 往時の西寺の寺域は、東寺と同じ、南北510m、東西250mありました。
 広い公園の丘の上に佇むと、さぞかし立派な伽藍であったろうと、往時が偲ばれます。

 

 西寺にかつて安置されていたという「地蔵菩薩立像」(重文、平安時代初期)は、
現在、東寺の宝物館に安置されています。

 

「西寺児童公園」、中央に「西寺址」の碑のある丘が見えます。

丘の上のある「西寺址」の碑

西寺址・本堂の柱の礎石

 

往時の“西寺”の寺域推定図、
現在の碑のある児童公園は、旧“講堂”あたりです。

 

九条通りから見た、東寺の五重塔


2. 鎌達(けんたつ)稲荷神社・・・陰陽師/安部晴明ゆかりのお社

 

“西寺址”を探して西寺児童公園を歩いていると、公園の北東角に、曰くのありそうな小さなお社がありました。 何と、安部晴明の子孫、陰陽師/土御門家の鎮守社とか。
 調べてみると、鎌達稲荷神社は梅小路にあった土御門家の屋敷内にあった鎮守社で、
祭神は、倉稲魂大神(伊勢神宮外宮の豊受大神(穀物の神)と同一神)と道開きの神、猿田彦大神・・・と、伊勢系と出雲系の神が同居する不思議なお社です。本殿は西を向いており、これは出雲系を意味しています。
 鎮座は、仏教伝来(538)頃とも、奈良時代の同和4年(711)とも言われ、伏見稲荷大社より古い故に“元稲荷”とも呼ばれ伝えられています。平安以前、京都を開拓した“秦氏”に関係していると思われます。“鎌達”は、優れた鎌・・・優れた農具の意味だからです。
 また、神社の名前に、何故、“稲荷”がつくのかは不明ですが、安倍晴明が狐の母から生まれた伝説から、後世、“稲荷”の名称が追加されたのかもしれません。
 何とも、不可思議な神社です。



 神社の横には、平安中期の比叡山の高名な天台密教僧“浄蔵”の塚が、何故か、ここにあります。
 浄蔵の父は参議/三善清行、母は嵯峨天皇の孫と伝わり、亡くなった父を祈祷で蘇生させたり(一条戻り橋の伝説)、清水の「八坂の塔」が傾いたのを真っ直ぐに直したりと、幾多の呪的奇跡を演じた怪僧です。
 陰陽師として数々の呪的奇跡をなした安倍・土御門家は、呪的奇跡の先達故に、“浄蔵”を祀ったのでしょうか?

 

 大阪と岡山にしかない「サムハラ神社」のお守り(サムハラ)を何故かこの神社で頂くことが出来ます。
サムハラはサンスクリット語からの由来で、文字は漢字ではなく“神字”と言います。奇跡の身を守る護符と言われています。
 加藤清正は朝鮮の役の際、刀にこの神字を彫り付け信仰していたため、万死に一生を得たと言われています。 
 とにかく、鎌達稲荷神社は、不可思議だらけの神秘の神社、パワースポットです。

「浄蔵貴所之塚」と、「宇賀神」「黒住大明神」「阪杦大明神」など

奇跡のお守り「サムハラ」


3. 羅城門址

 

平安京の造営(794年)と共に建設された平安京の正門で平安京のメインストリート「朱雀大路」の南端にありました。「羅城門址」は、現在の九条千本にあります、そして、この“千本通り”は古代では“朱雀大路”に相当します。
 また「羅城門」の規模は、二重楼閣屋根瓦構造で、正面巾36m、奥行き10m、高さは21mの、壮大な門でした。
 816年の台風で倒壊、その後再建されましたが、980年の台風で再度倒壊、以後、再建されることはありませんでした。
 
 平安後期荒れ果てた“羅城門”には、鬼の伝説が数々あります。
 一つは、「謡曲」では、酒呑童子を討伐した後、源頼光と家来の四天王が宴を催していた時、肝試しとなり、渡辺綱が一人で羅城門へ行くと、突然、鬼に兜をつかまれ奪われたものの、鬼の片腕を断ち切ったという伝説です。
 この話は、「平家物語」では、「一条戻り橋」の話と伝えます。 この鬼は、酒呑童子の一番の家来「茨城童子」です。

「羅城門址」の碑

羅城門址の「唐橋羅城門公園」


 一つは、村上天皇の御代、皇室の大事な琵琶
「玄象」が盗まれた。天皇の甥/源博雅が清涼殿に詰めていた時、どこからか「玄象」の音が響いて来た。
博雅が音を辿っていくと、そこは羅城門の二階から聞こえているのだった。「その琵琶を弾かれているのはどなたですか?」と問うと、綱につるされた「玄象」がするすると降ろされてきた。
人々は、鬼が盗んでいった「玄象」を取り戻したと博雅の働きを讃えた。

 博雅は管弦の名手と言われた実在の上流貴族。
陰陽師の小説で安部晴明の親友として描かれていますが、実際には二人は身分は違い過ぎると思います。

「矢取地蔵堂」の右奥の公園が「羅城門址」です。

 中央道を貫くメインストリートがが「朱雀大路」
 道路幅は、85mありました。

 

 “朱雀王路”南端が平安京入口の「羅城門」
 “朱雀王路”北端が内裏への入口「朱雀門」

 

 平安京の大きさは、東西4.5km、南北5.2km
 ありました。


写真:「明日の京都文化遺産プラットフォーム」資料より

 「羅城門」の往時の

 1/10の模型
 (京都駅北口)

 

 

 

 

 

 「平安京」と「羅城門」の

 イメージ図

 

 中央のメインストリート「朱雀大

 路」は、幅85mあった。


 2016年11月21日、京都の寺社・大学などでつくる「明日の京都文化遺産プラットフォーム」により、2020年の東京オリンピックに向け、交際観光都市“京都”を更にアピールしようと京都駅前北口広場に「羅城門」の往時の1/10の模型が展示された。宮大工組合により、製作費1億円かけ制作した。
 往時の「羅城門は」、横幅36m、奥行き10m、高さ21mだった。

写真:平安京創世館資料より


4. 矢取地蔵堂

 

 824年日照りで人々が苦しんでいた時、淳和天王が西寺の守敏と東寺の空海に神泉苑で雨乞いを命じた。
 守敏が祈念したが雨は降らない、一方、空海が願をかけると三日三晩雨が続いた。腹の収まらない守敏は、空海を羅城門近くで待ち伏せ、矢を放った、その時、黒衣の僧が現れ、身代わりに矢を受け、空海は難を逃れた。
 黒衣の僧は実はお地蔵様の化身であり、後に、そのお地蔵様は「矢取地蔵」「矢負地蔵」と呼ばれ、信仰を集めたという。

 

 この伝えは、後世の熱烈な“弘法大師信仰の中で、空海を賛美するため、西寺の守敏は悪役にされたようです。 守敏は国家一番の西寺を預かるだけの徳のある高僧であったに違いありません。

「矢取地蔵堂」本堂

 「矢取地蔵堂」は羅城門側にある

ため、東に7分歩くと「東寺」、
西に7分歩くと「西寺址」です。


5. 朱雀門址

 

 現在の京都の碁盤の目の西の端の大通り、「西大路通り」の二条、JR山陰線「二条駅」からすぐの所の住宅の前庭にひっそりと、「此附近平安京大内裏朱雀門址」と書かれた石碑があります。往時の“朱雀大路”は都の真ん中でしたから、現在の京都が東側にずれ発展したことが分かります。規模は、羅城門と同じ、横幅36m、奥行10m、高さ21mと壮大なものでした。1208年の火災で焼失し、翌年には再建されましたが、1211年に自然崩壊、その後は再建されませんでした。
 朱雀門にも、鬼の伝説がいくつか伝えられています。
 平安中期の中納言/紀長谷雄は、内裏から帰宅途中、朱雀門で、そこに住む鬼に挑まれ、鬼は「絶世の美女」を、長谷雄は「全財産」を賭け、“双六”を戦うこととなった、一晩中戦い続け、翌明け方、ついに長谷雄が勝った。


 鬼は後日美女を連れて長谷雄の元を訪れた。鬼は長谷雄に「この女に100日間は決して触れるな」と言い残すが、長谷雄は80日を過ぎると我慢できず抱いてしまう。すると、女は水になって流れてしまった。美女は、鬼が、女の数々の死体から良いところを集めて作り上げたもので、100日たった後、本当の人間になるはずだったという。

「大内裏・朱雀門址」の碑

左側の「西大路通り」から北を臨む、右に石碑