2016年10月1日
(写真・文、 光岡主席研究員)
① 「上御霊神社」
「上御霊神社」には、無実の罪で皇太子を廃され憤死した桓武天皇の弟、早良(さわら)親王と奈良時代から
平安初期にかけての政争の中で冤罪で悲運の内に亡くなった5人(井上大皇后、他戸親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麿)が祀られています。
桓武天皇の寵臣で長岡京造営に尽力していた藤原種継が暗殺された際、早良親王が関与したと罪を問われ、淡路国へ流される途中、親王は身の潔白を訴え食を断ち絶命しました。
親王の死後、事件関係者の急死、疫病の流行など災いが続いたため、親王の祟りを恐れた桓武天皇は鎮魂のため他の5人と共に794年に祀りました。更に800年には親王に「崇道天皇」の尊号を追贈しました。
上御霊神社の今は“地元の氏神様”として北区・上京区の人々に厚い信仰を受けている神社ですが、元を辿れば悲しい歴史を持ったお社です。
この“御霊信仰”は祇園・八坂神社へも引き継がれ、“祇園祭り”となっていきます。
上御霊神社 鳥居
上御霊神社 楼門
上御霊神社の一帯は、平安遷都以前の古代、“出雲族”の住む地域で、その氏寺として、「上出雲寺」「下出雲寺」がありました。
その寺の中にあった上述の6人を祀った「御霊堂」が平安時代末、出雲寺の没落と共に“御霊堂”から“御霊神社”となりました。
「上御霊神社(上出雲寺)」は古代から現在に至るまで同じ場所にあり、かつ、平安京にあっては北東角/鬼門に位置し、都を守っています。
当時の「出雲寺(上出雲寺)」の様子は、「今昔物語」「宇治拾遺物語」にも登場します。
また、上御霊神社」は「応仁の乱、勃発の地」でもあり、石碑が立っています。室町時代の1467年、失脚した管領/畠山政長と畠山義就が家督争いで
境内の森で戦いました(御霊合戦)、これが「応仁の乱」の始まりとなりました。
「応仁の乱勃発地」石碑
上御霊神社 本殿
節分祭 祝詞奏上
節分祭 御霊太鼓
② 「下御霊神社」
「下御霊神社」は、秀吉の“京都復興”の中で、今の寺町通りに移されました。
創建は839年、
祭神は、早良親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、は上御霊神社と同じ、
他に、伊予親王、他部親王を祀る。
後年、上/下の両社ともに、何故か吉備真備、火雷神(菅原道真)が追加で祀られました。
「出雲寺」も「御霊神社」も何故「上・下」二つあるのか不思議です。
下御霊神社 鳥居
上御霊神社 舞殿
上御霊神社は、地域住民(氏子)から慕われる一方、
皇室と関係深く、菊の御紋のある風格ある神社です。
節分祭 “お焚き上げ”
下御霊神社 本殿
下御霊神社 拝殿
人気の“嗤う狛犬”
天保時代の“御霊祭 絵図”
格式のある神社なのに、文化財級の建物が朽ちて荒廃しています、残念で不思議です。
③ 「崇道神社」
京都の洛北、上高野の西明寺山麓、高野川の河畔の若狭街道(鯖街道)沿いにある「崇道神社」に、9月の平日の午後、参拝しました。
人一人居ず、鬱蒼とした森の中に続く参道は,今も悲運の早良親王の怨念が漂うかのような異界でした。
本殿への石段を上がろうとした時、突然、参道脇の手水舎へ注ぐ水が大きな音を立てて流れだし、思わずドキっとさせられました。
創建は「崇道天皇」の諡を送られた後の貞観年間(859~877年)と言われ、早良親王だけをお祀りする神社は、ここ「崇道神社」だけです。
崇道神社 一の鳥居
本殿へ続く参道
5月5日の「崇道神社大祭」には、神輿が出ますが、順路は決まっていず、神慮によって道なき道を行くそうです。これに逆らうと急に神輿が重くなり動かなくなるそうです。
かつて、叡山電車の線路上で神輿が止まり、電車を止めたこともあるそうです。
怖い話です。
本殿への石段
崇道神社 本殿