僕のミャンマー修行の旅
主席研究員 稲垣 秀夫
2017年4月10日
東南アジアへの移動は夜行便になりました。今回はクアラルンプール経由ヤンゴン行。まずは観光地バガンを目指して、一旦、ヤンゴンに入り、そこからデラックス仕様の夜行長距離バスでバガンに入る計画です。
途中、機内食は意地汚く全部食べるし、映画も2本見ましたので、ヤンゴン到着時はやや寝不足状態です。バガン行きの夜行バスチケットを買おうと、ヤンゴン駅前のバスチケットの代理店まで出向いてチケットを買い求めたのですが、バガン人気は半端なく、まだ昼前なのにどの店も既に売り切れ。最後に訪れた代理店で、途方に暮れた顔をすると、その店のおやじが「4時発のバガン行夜行列車があるから駅に行ってみな」と仏のような顔で親切に教えてくれました。これが今回の修行の引き金となりました。
だめなら今夜はヤンゴンに一泊して翌朝一番の国内線フライトでバガンに向かうしかないかと半分諦めながら駅に向かうと、ヤンゴン駅は外観も内部も「ここは遺跡か?」と見まがうほど、石造りの床も壁も天井も全部薄汚れており、構内は大勢の現地の人で溢れ、そこは東南アジア旅行の好き嫌いを見極めるリトマス試験紙のような、一昔前の東南アジアの風情がそのまま残された光景でした。皆、寝そべったり、座り込んだりしていますので、人のいないところを縫って中に入っていくと、いろんな表示はちんぷんかんぷんなミャンマー語表記ばかりで、何が何だかわかりません。それでも、現地の人たちが切符を買うために並んでいるところを見つけ、その後方に並んで順番を待ち、やっと窓口に到達し口を利くと、窓口の駅員の言葉はちんぷんかんぷんです。唯一の情報はあっちの窓口だと指さされたことだけで、その列に再度並びました。自分の番が回ってきて、バガン行きの切符が欲しいと言ったら、そこでもバガン行きは買えず、それは別の窓口だと今度は英語を使って教えてくれました。どうやら前の駅員は、その窓口の駅員が英語を話せるので指さしてくれたようです。この英語を話せる駅員さんは親切で、奥にいた駅員に何か言うと、そこから別の人が部屋から出てきて、少し離れたところにある人の並んでない窓口まで連れて行ってくれました。どうやらその窓口が1等車の切符を買う窓口だったようで、バガンまでの座席はあるかと聞いたら、寝台車の座席があるとのこと。内心「よかった。これでバガンに行ける」と即決で1枚買いました。
さて、出発時刻が近づき、列車がホームに入ってくると、列車の編成は先頭が古びて埃まみれのディーゼル機関車、その後ろは何両も続く2等客車と2両の1等客車、2両の貨物車の編成です。線路幅はおそらく日本の在来線と同一です。1等客車は1つの車両が3つの独立した部屋に分かれ、部屋ごとに左右に乗降口がついていました。1つの部屋の中は左右にゆったりした4人掛けの対面座席と乗降口とトイレがついており、昼間はその椅子を左右2人ずつで使い、夜は対面座席を動かしてベッド1人分にし、椅子の上にある広いソファー棚をもう1人がベッドとして使います。政府幹部用だったのか、ゆったりとした広さと、歴史を感じさせるものです。
ヤンゴン駅は始発駅なのに列車がホームに止まると、2等車では男女を問わず、我先に窓から大きな荷物を放り込んで乗り込む始末。その風景はどこか懐かしく思えました。
さて、18時間のバガンまでの列車旅行の出発です。同室の3人は皆、腰巻スタイルのミャンマー人男性で、わたしと同じサイドは商売人と思しき、ちょっと太めで50歳くらいのこわもてのおじさん。反対側に坐る一人は学生と思しき丸顔の優しそうな若者と、もう一人は少しぼけた感じの痩せたおじいさんです。
車両の窓は昔の日本と同じ手動で開けるタイプで、暑いので当然全開にします。ゆっくりとした列車のスピードで、窓から入る風とレールの継ぎ目の心地よい振動と音がくりかえし続きます。ところが、さすがにここは大陸。ヤンゴン市街を離れたところから窓の外の景色はずっと同じなのです。発車してまだ1時間しか経過してないのにすでに退屈が始まりました。本を1冊持参していましたが、列車の揺れが尋常ではなく目の焦点が合いませんので読書は無理そうです。2等車に乗っている皆さんの窮屈さを思うと贅沢な悩みなのでしょうが、これはこれで、長時間何もしないことを強要され、放棄するという選択肢もないので、苦行ではあります。考え事をめぐらしてもどうしたわけか長続きせず、ただ「ぼうっと」しているだけなのです。ただ、寝たふりをして夢うつつになると、体の緊張が解けて、これが「ゆっくりと時が流れる」ということなのだと思わせる感覚に浸ることはできました。
外が暗くなり始めてもミャンマー人3人は窓を閉めようとしません。明かりを求める虫が次々と車内に入ってきます。ホテルで蚊が出たとき用に携帯用の電子蚊取りをバッグに忍ばせていますが、周りは蚊も殺さぬ信心深い仏教徒のミャンマー人ですので自分勝手に電子蚊取りを取り出すわけにもいきません。唯一真っ白のポロシャツを着た私をめがけて小さな虫が集中攻撃を仕掛けてきて、今度は虫にも耐える時間が始まりました。
すっかり夜のとばりが下りた8時頃、途中停車駅で、同室の若者が弁当売りに声をかけたのに乗じて、小生を含む3人も同じ弁当を購入。当然、弁当売りの言葉はわからず1000チャット(日本円で100円)札を窓の外にいる弁当売りに渡しました。すんなり手渡してくれて、発泡スチロールの使い捨て弁当箱の蓋を開けました。中身は炊いたタイ米の白ごはんに干した「いりこ」サイズの小魚を調理して振りかけてあって、横には油と醤油で煮た一口大の鶏肉がいくつかと発酵食品らしき高菜漬けとザーサイの油いためが並んでいます。退屈していて、他にすることもなかったので、味わいながら食べると、これが結構旨い。通路の向こうから若者が「この食事は大丈夫ですか?」と初めて英語で聞いてきたので、「旨いよ」と応えると、自分たちが普段食べているものを旨いと言って外人が食べているのが嬉しかったのでしょう。若者は嬉しそうに微笑んでうなずいていました。
寝台の上で寝る前に小水を済ませておこうとコンパートの専用トイレに入ると、まあ、昔の国鉄にあった線路上に「落とす」式のトイレであることには納得できたのですが、どういうわけか天井から水滴がぽとぽとと頭上に落ちてくるのです。おじいさんがさっきから何度もトイレに行っており、尻洗い用シャワーを天井にぶちまけて、トイレ全体を洗ってしまったのか、はたまた配管の漏れか、上を見上げると、滴り落ちる水は電灯のカバーの中の虫の死骸エキスをたっぷり吸っています。平気なのだと自分に言い聞かせ、小のほうだけを済ませたのですが、席に戻ると私の髪は結構濡れていました。
夜10時。ようやく6時間が経過しました。下に寝る商売人風のおじさんの身振り手振りで、そろそろ寝台にしようかということになり、予め置いてあったシーツを敷いて上がりました。上は座るほどの高さはなく、もはや横になるしかありません。すぐにわかったのですが、上の段で、寝ている姿勢では振り落とされるほど体を揺すぶられ、これが半端ではないことがわかりました。寝たちょうど胸のあたりに長さ5~60センチ、高さ10センチほどの落下防止用のスチールバイプがついていますので、落ちないためには、この手すりに頼るしかありません。壁際に身を寄せ、左手は胃のレントゲン検査のときのようにしっかりスチールパイプを握っています。朝6時には日が上り再び座席に戻れますが、それまでの8時間、途方もなく長い時間を揺れる台上で耐える修行が待っているのです。
ところが、この恐怖にもかかわらず、前夜の睡眠不足が勝ったのか、ものの2~3分で(不覚にも?)眠りについてしまいました。ゆりかごの赤子のごとく、車両の揺れは眠りを誘うのです。
目を覚ましたのは早朝でした。案ずるより産むがやすし。目覚めたのはなんと車両が静止したタイミングでした。ベッドから身を乗り出すと、窓の外はまだ暗く、物売りの声がホーム上で響いています。腕時計はすでに5時40分を指しています。8時間近く熟睡した計算になります。下段に寝た二人が起きている様子はありません。列車が動き出すと、またすぐに寝てしまいました。次に目覚めたのは7時です。今度も列車の揺れが止まった時でした。ベッドから身を乗り出して見ると、窓の外は既に明るく、下に寝ていた若者はすでに起きていました。目が合い、一緒に朝ご飯を食べないかと誘われたので、ベッドから降り下の席に座りました。若者に1000チャットを渡して一緒に弁当を買ってもらいます。足りるかと聞いたら、弁当と一緒に100チャットが戻ってきました。前夜のはいくらだったかはわかりませんが、この弁当の値段は90円です。
朝起きると、到着までもはや残り3時間のところまで来ており、乗車来抱えていたストレスはすべて消えていました。なんともう15時間が経過しています。ミャンマーに少し溶け込んだように感じました。
これだから、東南アジアの一人旅はやめられないと一人ごちていましたら、はや失敗。バガンでの寺巡りでの石畳の境内歩行は裸足厳守。炎天下でフライパンのような焼けた大理石の上を歩く必要があります。足裏が火傷しそうです。バガンの寺巡りが終わり、マンダレーに移動後、丘の上の寺院を拝んで階段を裸足で下りてきたら、遂に足の裏、親指の付け根のところにできた大きな水泡が破れて、皮がむけてしまいました。修行がまだまだ足りないようです。気を緩めてはいけません。
車中で学んだことが2つあります。ミャンマーは仏教国で、ヒンズー教ではありませんが、どうやら牛は食べない方がよさそうです。沿線に数多くの牛を見ましたが皆、役牛です。一番いい光景は2頭立ての牛と、それが引くすきの上に乗った男性が広大な畑を耕す景色でした。どの農家も家族として牛を飼っているように見えます。エンジンのついた耕運機は1台も見ませんでした。
ミャンマーはこれからの国です。人口は5千万人おり、アセアンの大国の一つですが、軍政時代は欧米からの資金投下が行われませんでしたので、社会のしくみも経済も、ひいては国民の意識もタイやマレーシア、ベトナムと比べてもまだまだこれからといった感があります。物価も賃金も他の主要アセアン国と比べて、まだまだ相当低そうで競争力があり、今後人口も増え国内経済も相当成長しそうです。東南アジア域内の自由化を見据えた、エアアジアと競合できる航空会社はひょっとすると、この国でなら作れるのではないかと思われます。また、ベトナムのベトジェットのように大化けする航空会社がこの国に出現しそうな気配がします。この国の航空会社との提携はそういった観点から考えられるのではないかと思いました。どうすれば提携が成功するのか。それは机上ではわかりません。聞かれたら教えてあげます。
観光の話になると、バガンは観光地としてまだまだ未開発ですが、目を引く観光資源が広大な地域に広がっており、政府も観光資源保護に意を尽くしてきてランドスケープが良く、この規模感がバガンを有力な観光地・リゾートに変身させるものと思われます。タイのアユタヤに勝り、アンコールワット(シェムリアップ)に並ぶスケールの大きな、一大内陸観光地になる潜在力を感じさせます。
特別のご縁はないんですが、日本人の一人のつもりで、帰りにマンダレー郊外にある旧日本軍の兵隊さんの墓を墓参してきました。
以 上