全国一宮 第27回「備前国一宮 吉備津彦神社」(2019年 3月)

2019年6月1日

 

(写真・文、 光岡主席研究員)

 

 備前一宮「吉備津彦神社」は、歌枕でも有名な神体山“吉備の中山”の北東麓に鎮座し、祭神は、“吉備の中山”の西麓に鎮座する備中一宮「吉備津神社」と同じ「大吉備津彦命(オオキビツヒコノミコト)」を祀ります。「大吉備津彦命」は元の名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコのミコト)と言い、第10代・崇神天皇の命令で全国に派遣された「四道将軍」の一人として山陽道に下り、ヤマト朝廷に従わない瀬戸内海を制した吉備の豪族「温羅(ウラ)」を平定しました。降参した温羅は民衆から呼ばれていた「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上し、以降、五十狭芹彦命は「吉備津彦命」と呼ばれるようになりました。以後、その子孫がこの地方に繁栄して「吉備国造(キビノクニノミヤッコ)」となり、「吉備臣(キビノオミ)」を名乗り、勢力を振るいました。

 この二つの一宮は1キロも離れておらず、おそらく古代においては、両社は一つの神社であったと思われます。

 “吉備”の力を警戒したヤマト王権の分断政策により、備前・備中・備後の3つに分国化されたものと思われます。

吉備津彦神社 鳥居

吉備津彦神社 参道


 現在は、備中一宮「吉備津神社」が吉備三国の一宮・・・本家とされていますが、

ここ「吉備津彦神社」の社伝では、「吉備津彦命」の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社の始まりと伝え、また、桃太郎伝説の元となる「温羅(うら)伝説」でも、征伐された「温羅」は鬼門(丑寅・北東)の方角に埋葬されたと伝え、これが当てはまるのは、ここ「吉備津彦神社」です。吉備津彦神社の北東に「温羅」の胴体を祀ったと伝える古墳があるからです。

 もしかすると、ここ「吉備津彦神社」が本家なのかもしれません。

 更に、神社の前に広がる「神池」は、飛鳥・奈良時代には既に造営されていた可能性も指摘され、神社建立の古さではここ備前一宮「吉備津彦神社」が、備中一宮「吉備津神社」まさるのかもしれません。どちらが本家か、今も謎です。

神体山・吉備の中山

 社殿は、夏至の日には、正面鳥居から太陽が差し込み祭文殿の御鏡に当たる造りです。

 故に、吉備津彦神社の別称を「朝日の宮」と言います。

 古代の太陽信仰を伝えています。

吉備津彦神社・拝殿

吉備津彦神社・拝殿

亀島・亀島神社

飛鳥時代に造営されたと推測される“神池”

稲荷神社

「天満宮」

菅原道真公が、太宰府への道中、立ち寄られたと伝えます。

 

 桃太郎(吉備津彦命)伝説の“鬼”のモデルとなった

 “温羅”・・・吉備を地盤に勢力を誇った豪族でした。 百済から“鉄”を伝えた渡来人とも言われています。

温羅神社

吉備津彦神社 随神門

吉備津彦神社・本殿

吉備津彦神社 拝殿・本殿

 

 

 「神池」の中にある小島には弥生時代と推測される謎の「環状列石・ストーンサークル」があります。

 また吉備津神社の本殿が夏至の日の出の方角(東)を向いていること(大半の神社は南面)などを推測すると、

 ここ吉備津彦神社には、遙か古代から繋がる原初的な太陽信仰が基層にあるのかもしれません。

 

「ヤマト」と異なる古い「吉備」の歴史を伝えています。

謎の環状列石・ストーンサークル

 

 

 

 

 

 

摂社・末社

7つの末社

「摂社・子安神社」

 

 

 

 

 

桃太郎像

岡山市公式観光情報サイト「おかやま観光ネット」より


楽々崎神社・楽々与理命

桃太郎の家来“雉子”の神様

楽々崎神社・楽々森彦命

桃太郎の家来“猿”の神様

十柱神社の中の片岡(犬飼)健命

桃太郎の家来“犬”の神様