2019年6月1日
(写真・文、 光岡主席研究員)
備前一宮「吉備津彦神社」は、歌枕でも有名な神体山“吉備の中山”の北東麓に鎮座し、祭神は、“吉備の中山”の西麓に鎮座する備中一宮「吉備津神社」と同じ「大吉備津彦命(オオキビツヒコノミコト)」を祀ります。「大吉備津彦命」は元の名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコのミコト)と言い、第10代・崇神天皇の命令で全国に派遣された「四道将軍」の一人として山陽道に下り、ヤマト朝廷に従わない瀬戸内海を制した吉備の豪族「温羅(ウラ)」を平定しました。降参した温羅は民衆から呼ばれていた「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上し、以降、五十狭芹彦命は「吉備津彦命」と呼ばれるようになりました。以後、その子孫がこの地方に繁栄して「吉備国造(キビノクニノミヤッコ)」となり、「吉備臣(キビノオミ)」を名乗り、勢力を振るいました。
この二つの一宮は1キロも離れておらず、おそらく古代においては、両社は一つの神社であったと思われます。
“吉備”の力を警戒したヤマト王権の分断政策により、備前・備中・備後の3つに分国化されたものと思われます。
現在は、備中一宮「吉備津神社」が吉備三国の一宮・・・本家とされていますが、
ここ「吉備津彦神社」の社伝では、「吉備津彦命」の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社の始まりと伝え、また、桃太郎伝説の元となる「温羅(うら)伝説」でも、征伐された「温羅」は鬼門(丑寅・北東)の方角に埋葬されたと伝え、これが当てはまるのは、ここ「吉備津彦神社」です。吉備津彦神社の北東に「温羅」の胴体を祀ったと伝える古墳があるからです。
もしかすると、ここ「吉備津彦神社」が本家なのかもしれません。
更に、神社の前に広がる「神池」は、飛鳥・奈良時代には既に造営されていた可能性も指摘され、神社建立の古さではここ備前一宮「吉備津彦神社」が、備中一宮「吉備津神社」まさるのかもしれません。どちらが本家か、今も謎です。