2019年3月1日
(写真・文、 光岡主席研究員)
謎だらけの神社、それが「宇佐神宮・八幡信仰」です。
全国の神社数は約8万、その中で飛び抜けての1位が約8千の「八幡信仰」で、その総本宮が「豊前国一宮・宇佐神宮」です。京都の「石清水八幡宮」も「鎌倉の鶴岡八幡宮」も「宇佐神宮」から勧請されたものです。
何故、古代史の主役、ヤマト、出雲、北九州から離れた宇佐(大分)の地に、歴史と格式のある神社があるのか?
何故、日本神話にも登場しない謎の神「八幡神」なのに、この「八幡神信仰」が日本で最大の神社数をほこるのか?
又、朝廷・皇室と関係が深いのか? 「八幡神」(神)なのに何故「八幡大菩薩」(仏)なのか? 本当に不思議です。
境内は広大で、他国の「一宮」とは異なる独特な風格・雰囲気を持った神社です。
宇佐神宮 鳥居
宇佐神宮 上宮全景
日本で最初の「神仏習合」
武士が戦勝祈願に八幡様に詣で「南無八幡大菩薩」と拝みますが、不思議と思いませんか? 「八幡様」は神様です、 一方、「南無・・大菩薩」は仏教です。
宇佐神宮は、日本で最初の「神仏習合」の神社で、明治政府によって「神仏分離」がなされるまで、宇佐神宮境内には神宮寺である壮麗な「弥勒寺」があり、神仏一体のものとして「宇佐八幡弥勒寺」を正式名称として名乗っていました。
つまり、神である八幡神自体が同時に八幡大菩薩という仏でもあり、「八幡宮」とは「八幡大菩薩を本尊とする寺院」でもあったのです。
「神仏習合」の始まりは、720年隼人が反乱を起こした際、ヤマト朝廷は鎮圧のため宇佐八幡に神託を仰ぎました。すると八幡神は「我(われ)征(ゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」と自ら朝廷の兵隊と共に征討に赴きました。 その後、「八幡神」は隼人との戦いでの殺生を悔い、仏教に救いを求めました。これが日本独特の「神仏習合」始まりです。
神仏習合
神宮寺・弥勒寺跡
上宮参道・鳥居
宇佐鳥居
上宮への参道
「西大門」上宮への入口
現在のご祭神は、一之殿「八幡大神(はちまんおおかみ)(応神天皇)」、二之殿「比売大神(ひめおおかみ)(宗像三姉妹・女神)、三之殿「神宮皇后(じんぐうこうごう)」となっていますが、勅使門から入った中央に鎮座するのは、二之殿「比売大神」で、一之殿「八幡大神」ではありません。不思議です。
二之殿「比売大神」は、社伝では「宗像三女神」が宇佐嶋(御許山)降臨し祀られたとしていますが、日本書紀によれば「比売大神」は地元の豪族宇佐国造家の祖、宇佐都彦/宇佐津姫と言われ地元神として崇敬されてきたと伝えます。中央に鎮座するのは、八幡神の現れる以前の主祭神だったことを示しているのでしょう。近年では「比売大神」は「卑弥呼」ではないかと言う説もあるようです。
上宮全景(手前から「一之殿」、中央「二之殿」、奥「三之殿」)
上宮 二之殿「比売大神」
その後、渡来系の辛島氏が祭祀の中心となり、新羅の神であった「八幡神・八幡信仰」を持ち込みました。豊前国風土記には「昔、新羅国の神、自ら渡り到来して、この河原(香春)に住むり」とあります。託宣を良くするシャーマン的性格を持つ神でした。
更に、その後、ヤマト中央からの大神氏(おおみわし)が祭祀を担うようになって、「八幡神」が「応仁天皇」と習合しました。伝承は、「宇佐の菱潟池の畦に住む容貌怪異な鍛冶の翁が金色の鷹や鳩に変身するのを見た神主の大神比義がこの翁を祀った所、翁は3歳の童子に姿を変え、『われは応仁天皇の広幡八幡麿、護国霊験の大菩薩なり』と名乗った」と伝えます、571年のことです。そして。725年に現在の地に鎮座されました。これが現在の宇佐神宮の創建です。
733年に神託により宇佐国造が二之殿を建立「比売大神」を祀りました。「応仁天皇」の母である「神功皇后」を祀る三之殿は823年に建立されました。
一之殿「応仁天皇」
勅使門(神宮パンフレットより)
宇佐神宮の参拝方法は「二拝四拍一拝」です。
「二拝四拍一拝」は、宇佐神宮、出雲大社、弥彦神社だけです。
三之殿「神宮皇后」
左奥に見える宇佐嶋(御所山)に
「比売大神」は降臨されました。
「大元神社」遙拝所
東大寺・大仏建立への神託と支援
聖武天皇の大仏建立の大事業の際、宇佐八幡神は「天の神、地の神を率いて、我が身をなげうって協力し、東大寺建立を必ず成功させる」と託宣し、“金”が陸奥で見つかるなど大いに神威を発揮し支援しました。
749年の開眼供養には大仏を礼拝したいと託宣、宇佐八幡の女禰宜大神杜女が神輿を造り八幡神を奉じてヤマトに赴き大仏を拝礼しました。これが日本の神輿のルーツです。
これ以降、宇佐八幡神は、「東大寺守護神」、「国家神」としての地位を歩み始めました。
宇佐神宮(石清水八幡宮も)は現在でも伊勢神宮に次ぐ皇室の第二の宗廟とされています。
更に、781年、朝廷は聖武天皇が没後八幡神と結合したとし、八幡神に菩薩号「八幡大菩薩」の号を贈り、仏教の守護神としました。
外宮全景
外宮への参道
和気清麻呂とご神託
宇佐八幡に皇室がより一層の崇敬を集めることとなった事件があります。
769年、弓削の道鏡に皇位を譲ろうとした称徳女帝は宇佐八幡の神託を求め、官僚の和気清麻呂を宇佐に派遣しました。宇佐の託宣は「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり、臣をもって君と為さすこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく掃除(そうじょ)すべし」とあり、これを報告しました。
道鏡の怒りをかった和気清麻呂は大隅国へ流されましたが、翌年、称徳女帝は崩御、光仁天皇が即位、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷、和気清麻呂は朝廷へ復帰し、落着しました。
護皇神社
和気清麻呂を祀る
呉橋(くれはし)
西参道の途中、屋根の着いた神橋。
鎌倉時代以前からあるという。
呉の国の人が掛けたという伝承がある。
神武東征
もう一つの「宇佐」の不思議は、「神武東征」に出てくることです。
古事記では、神武天皇は東征に当たり、日向を船立ちした後、最初に「豊国・宇沙(宇佐)」に立ち寄った際、宇佐国造の祖である「宇沙都比古(うさつひこ)」と「宇沙都比売(うさつひめ)」が仮宮を作って食事を差し上げたと伝えます。
「仮宮」は「日本書紀」では「一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)」と伝えます。
2700年ほど前の神話での出来事です。
「一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)」跡の石碑
朝廷、武家政権の崇敬(国家鎮護、戦勝祈願)が「八幡神」を全国に広めた
「八幡信仰」が大きく全国へ広まった最大の理由は、朝廷と代々の武士政権の崇敬です。
平将門・藤原住友の乱では石清水八幡宮で調伏の祈願がなされ、平定後は国家守護神としての崇敬が高まりました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は宇佐八幡神を鎌倉に迎えて「鶴岡八幡宮」とし、武士の守護神としました。
足利幕府も源氏再興の主旨から、「八幡信仰」を強く推し進めました。
宇佐神宮の摂社の一部
若宮神社 仁徳天皇以下五天皇を祀る
黒男神社 武内宿禰を祀る
東宮神社 応仁天皇の子孫を祀る