全国一宮 第24回「越前国一之宮 気比神宮」(2018年10月)

2018年12月5日

 

(写真・文、 光岡主席研究員)

 

 古代史の謎が集約された、由緒ある「北陸道総鎮守・越前国一宮・気比神宮」を訪ねました。

 祭神「伊奢沙別命(いざわけのみこと)」は、はるか昔の2千有余年前、神宮の後背山「天筒の嶺」に降臨、境内の聖地「土公」に鎮座されたと伝えます。

 別名「笥飯大神(けひのおおかみ)」、「御食津大神(みけつのおおかみ)」とも呼ばれ、神名の「けひ」は「食飯」を意味し、農漁業を守護する「食物神」として敬われてきました。 後には、大陸への航路の「航行安全の神」としても信仰を集めました。

 隣の丹後一宮の「籠神社」と同じく日本海で交易・漁業にたずさわった非ヤマトの「海人族」勢力の神でした。

「気比神宮 一の鳥居」・・・ 春日大社、厳島神社の鳥居と並び「日本3大鳥居の一つ」

気比神宮 拝殿


 古事記は、応神天皇(5世紀初)が参拝した折り、夢に気比大神が現れ「名前を交換しよう」と告げられ、天皇は名前を交換したと伝えます、

 これはヤマト政権が北陸を支配下においたこと、気比大神がヤマト国鎮護の重要な神となったことを伝えます。

 神功皇后と息子の応神天皇は「新羅遠征(史実ではありません)」時、戦勝祈願に気比神宮に参拝しますが、これは皇后と応神天皇が北近江・越前の豪族「息長氏」出身だったことが関係しているのかもしれません? 

 古代で唯一王朝交代があったかもしれないと言われる「継体天皇」(応神天皇5代の末裔と称した) も、ここ越前・若狭・北近江が出身地でした。

気比大神が降臨された神宮の後のある「天筒の嶺」

天筒の嶺から降り鎮座された「土公(どこう)」

 ・・・現在は境内隣の高校の校庭にあります。


厳粛な雰囲気の参道

二の鳥居

扁額

“菊のご紋”が天皇家との深い関係を示しています。

壮麗な廻廊


「敦賀」語源となった神社 「角鹿(つぬが)神社」

 

 日本書紀には、崇神天皇の御代(3世紀末~4世紀初)、朝鮮半島・任那の王子「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」が越前に渡来、ヤマト朝廷はこの王子に気比神宮の司祭と越前の政治を委ねたと伝えます。 これが「角鹿(つぬが)国造家」の始まりで、この「つぬが」がなまり、現在の地名「敦賀(つるが)」となりました。

 また、この王子には額に角があったと言われています。

摂社「角鹿神社」全景

・・・かつて気比神宮表口だった東側裏参道に鎮座されています。


 

 北陸一円に多くの荘園を持った強大な「気比神宮」でしたが、中世以降、南北朝時代には南朝に、戦国時代は朝倉氏に組みしたため、足利氏と織田氏に徹底して叩かれ敗北、神宮も全て消失し勢力を失いましたが、江戸時代に入って、福井藩祖「結城秀康」が再建しました。

 本殿は「国宝」でしたが、昭和20年7月の敦賀空襲で、またもや全てが消失しました。現在の社殿は昭和・平成に再建された物です。

 

 紆余曲折の歴史を持つ神宮ですが、それでも今でも格調高く、古く長い大陸との交流の歴史、日本海文化、渡来人文化を感じさせてくれます。

「気比宮古殿地遙拝所

   ・・・聖地「土公」の望む遙拝所。

「九社の宮」・・・気比大神の御子神など関係神々をお祀りする。


「長命泉」 

・・・1300年枯れずに湧き続ける泉、

祭神の1神「武内宿禰命」が283歳の長壽だったことにあやかり、この泉水を飲むと長生きすると信仰を集めています。

 

かつての「ユーカリの木」

「気比神宮ホームページより」

 

天然記念物「ユーカリの木」

 

昭和11年に植樹された「ユーカリの木」、日本海側の気候の中で大きく育ち、神宮の天然記念物として愛されてきましたが、残念ながら今年8月の台風24号で折れてしまいました。

現在の「ユーカリの木」