2015年7月1日
(写真・文、 光岡主席研究員)
小野篁(802年~853年)は平安初期を生きた文人・歌人としても名高く、参議(現在の国務大臣)まで上り詰めた上級貴族で、小野小町の祖父とも言われています。
先に紹介した「幽霊飴」の近所、平安京のかつての葬送地だった「鳥辺野」の入口「六道の辻」にある「六道珍皇寺」に、
小野篁が昼間の御所・朝堂での仕事を終えた後、夜、冥府・閻魔王庁へ通ったという井戸が現存しています。 2頁目の写真です。
西三条大臣/藤原良相は重病となり閻魔王庁に呼ばれた際、閻魔大王のかたわらにいた篁のとりなしで生き返りました。 後日内裏で閻魔王庁でのことを尋ねたら、篁は「昔助けてもらったお礼です、他言無用に」と答えたと言う。
六道珍皇寺 山門
「六道の辻」の石碑
この井戸は、年に2回ほど特別公開されます
冥府に通った井戸、遠景
冥府へ通った井戸
京都には篁にまつわる多くの旧跡・伝説があります、千本閻魔堂などもそうです、“神秘度”では平安京時代随一の人物です、武術にも優れ身長は188cmもあった偉丈夫、政治的にも遣唐副使を拒否し隠岐に流されたものの復権、参議まで上り詰めた硬派でした。 篁探しの京都巡り面白いですよ!!
「六道珍皇寺」はお盆の「六道参り」でも有名です、ここの鐘はお堂に覆われていて引き綱だけが外に出ています、
お盆には、家族が引く「迎え鐘」の音を頼りに、精霊は帰ってくると言われています。
また「六道珍皇寺の閻魔堂」には篁作と言われる「閻魔大王像」があります。
お盆「六道まいり」
閻魔王宮の臣「小野篁 卿」
迎え鐘(引き綱)
篁は閻魔王庁での仕事を終えた後、朝は明治初期まであった嵯峨/福正寺の井戸から帰って来たと言われています。
福正寺にあった「六道地蔵菩薩」と「篁像」は今も近くの薬師寺(嵯峨清凉寺の隣)に引き継がれ、安置されています。
元の福正寺のあった辺りは、今も地名は「嵯峨六道町」です(かつての平安京の葬送地「化野」のそば)。 この井戸は昭和35年、一旦再発見されましたが、高度成長期の土地造成の中で埋められたそうです。 残念なことです。
生の六道
嵯峨 薬師寺
六道 地蔵菩薩