2016年11月1日
(写真・文、 光岡主席研究員)
「平家物語」や謡曲「土蜘蛛」によると、
平安時代中期、酒呑童子退治で知られた源頼光が病に伏せっていた時、見知らぬ僧が訪ねてきた。
僧の正体は”土蜘蛛”で細い糸を繰り出して襲ってきたが頼光は名刀「膝丸」で切り伏せた。逃げ出した妖怪を追ってたどり着いた塚を掘り返すと”土蜘蛛の精”が現れたので再び切り殺したという。
以後「膝丸」は「蜘蛛切丸」と呼ばれるようになったと言う。
この伝説の「蜘蛛塚」と言われる場所が今も二つ現存します。
一つは、北野天満宮の大鳥居を越えたすぐ左手にある「東向観音寺(ひがしむきかんのんじ」の墓地に残る「土蜘蛛塚」。
北野天満宮 大鳥居
東向観音寺 山門
元々は、「一条通り七本松北西側」にあって「山伏塚」と呼ばれていたが、明治時代の都市開発の中で掘り返された。
ある人が掘り出された「灯篭」を貰い受け庭に飾ったが、たちまち家運が傾いたので、「土蜘蛛の祟り」と恐れ、東向観音寺に奉納したと言う。
朽ちた祠の中に“土蜘蛛灯篭”が見えます。不気味です。
“土蜘蛛塚”と“土蜘蛛灯篭”
(東向観音寺にはかつては北野天満宮の神宮寺
であったため、菅原道真の母堂の廟があります)
伴氏廟
二つ目は、千本閻魔堂に近い「上品蓮台寺(じょうほんれんだいじ)」の墓地の大きな椋の老木の根元にある「頼光塚」(土蜘蛛塚)。
元々は、北区の船岡山の南西にあって「頼光塚」と呼ばれていたが、昭和の初め頃、現在の千本通りに面した上品蓮台寺に移されたようです。
かつてこの老木を切り倒そうとした植木屋さんが原因不明の病にかかって亡くなったそうです。
平安時代からの古刹「上品蓮台寺」の整然と雰囲気のある境内で「頼光塚」を探すも見つかりません。
境内で仕事中の植木屋さんに尋ねると、「あ~、あの“蜘蛛塚”ね、案内しましょう」と、
境内のはずれに行くと広い墓地が、・・・、
「あの大きい木の下の“塚”がありますよ」と。
見ると、墓地の端に周囲を圧倒するような巨大な椋の老木が・・・。
「頼光塚」のある椋の木
上品蓮台寺 山門
上品蓮台寺 本堂
ここから不気味な体験をしました。
椋の木の所に行こうと墓地の小道を歩くと、何と、僕の歩く場所の墓の卒塔婆だけが“ガサガサ”と音を立て
揺れ動くのです。
同行していた妻も叫びます「変よ!あなたの歩いている所だけ卒塔婆が音を立ててる!」
椋の木にたどり着くと、根元に「源頼光朝臣塚」と彫られた朽ちた石の塚がポツンとありました。
「頼光塚」遠景
「頼光塚」(土蜘蛛塚)
「頼光塚」への墓地の小道
ここ船岡山や上品蓮台寺の周辺は、平安京の時代、京に3つあった葬送地の1つ「蓮台野」の跡地です。
上品蓮台寺の墓地にも、かつての葬送地「蓮台野」から掘り出されたであろう“無縁仏”“石佛”が多数並んでいました。
また「千本通り」の名前は、葬送地「蓮台野」への道に“千本の卒塔婆”の立てて供養したことに由来するといます。
京都は今も伝説と共に生きています。
頼光塚の側にあった朽ちた石佛
上品蓮台寺墓地の無縁仏・石佛