2016年3月1日
(写真・文、 光岡主席研究員)
京都市内の真ん中を南北に走る「堀川通り」の「北大路堀川下る西側」の島津製作所の紫野工場の塀の途中に、忽然と「紫式部、小野篁の墓所」が現れます。
なぜ、お寺でも無いこんな場所に?驚きです。 通路を奥に入って行くと、工場とビルの谷間の小さな隙間に、紫式部と小野篁の墓が並んでいます。 800年代前半に生きた文人公卿「小野篁」、1000年頃生きた紫式部、150年もの時代差があるのに、何故、この二人のお墓が一緒に?誰が世話をしているのか、綺麗に掃き清められた謎の空間です。
14世紀の源氏物語の注釈書「河海抄」には、既にその当時には二人の墓があったことを記しています。 すると、もう700年もこの2人のお墓はここにあるようです。
推測では、この紫野一帯は、平安京の三つあった葬送地「蓮台野」の跡、又この墓所の裏手には、平安時代、淳和天皇の離宮の流れを組む広大な寺院「雲林院」があり、紫式部は晩年ここに住んでいたとの伝えと関係があるのかもしれません。 謎です。
墓所入口(島津製作所の並び、左は堀川通り)
墓所入口(石碑左は「小野篁」、右は「紫式部」)
「紫式部」は「狂言綺語」を操る恋愛小説「源氏物語」を書いたため、地獄の落ちたと言われています。後世の源氏物語を愛した人たちは「紫式部」を救いたいと思い、閻魔庁で閻魔大王の補佐役をしていた伝説を持つ「小野篁」を一緒に祀ることで、「紫式部」を供養したようです。
かつて、篁は、危篤に陥った三条右大臣を閻魔大王にとりなし生き返らせた伝説があるからです。
「小野篁」は平安初期を生きた文人・歌人としても名高い上級貴族で、また武術にも優れ身長は188cmもあった偉丈夫、政治的にも遣唐副使を拒否し隠岐に流されたものの復権、参議(現在の国務大臣)まで上り詰めた硬派公卿で、小野小町の祖父とも言われています。
「小野篁」は昼間の御所・朝堂での仕事を終えた後、「六道珍皇寺」の井戸から、夜、冥府へ通い、閻魔大王の補佐役を務めていたと言われています。 (この井戸は現存しています)
紫式部の墓
左は「紫式部」、右は「小野篁」の墓
紫野にある現在の「雲林院」
現在の「雲林院」は大徳寺の塔頭の一つで小さなお寺ですが、平安時代には、「源氏物語」や「大鏡」の舞台にもなり、「枕草子」にも登場する高名で広大な境内を持つ寺院でした。
「大徳寺」はこの雲林院の跡地に建てられました。
千本閻魔堂
本尊・閻魔法王
紫式部像
紫式部供養塔
小野篁が開基で閻魔法王を本尊とする「千本閻魔堂」の境内には、あの世で不遇な紫式部の成仏を願って、1368年に円阿上人が建立した供養塔があります。
御所の東側、清和院御門に近い寺町通りに、“節分”の“鬼法楽”で有名な「廬山寺」があります。
この地は、平安時代、紫式部の邸宅跡と言われ、式部はこの地で育ちこの地で源氏物語を執筆したとの伝えられています。
廬山寺の「源氏庭」は清々しい庭園です。
節分・鬼法楽
廬山寺
紫式部邸宅跡石碑
源氏庭
五条大橋近く、五条木屋町を少し下がった、鴨川と高瀬川の間の大きな“「エノキ”のたもとに、「源融・河原院跡」の石碑がひっそりとあります。
河原左大臣・源融は光源氏のモデルとも言われ、この一帯にあった広大で豪奢な「河原院」も光源氏の「六条院」のモデルと言われています。
かつて河原院の森にあった名残のエノキを祀る祠
(後ろは鴨川)
「河原院の石碑」と名残のエノキが立つ
名残のエノキ(手前は高瀬川)