2016年1月26日
(写真・文、 光岡主席研究員)
京都のビジネス街の中心四条烏丸に近い高辻室町の街角に、通り過ぎてしまいそうな小さな神社、でも「商売繁盛」「良縁成就」など縁起の良い名前を掲げる、「繁昌(はんじょう)神社」があります。実は、末社としてすぐ近所にある「班女塚」の「班女(はんじょ)」が訛って、「繁昌」になったようです。 現在、ここの住所は「繁昌町」です。
この「班女塚」には、宇治拾遺物語の巻3の15に「長門前司の女、葬送の時、本処に帰る事」と伝える伝説があり、千年も経つ今も全く同じ場所、細い路地の途中に「塚」があります。
班女塚
繁昌神社
平安末期、長門の国(今の山口県)の前の国司に姉妹の娘がいた。 姉夫婦と未婚の宮仕えを辞めた妹(班女)が高辻室町の屋敷に同居していた。妹は27・8歳の頃、病気で亡くなり、棺に納めて鳥辺野(葬送地)まで運んだが、着いてみると中は空っぽ。不思議に思い屋敷に帰ると、妹の遺体は元の住んでいた部屋にあった。 翌日、もう一度運んでみたが同じ。ついには、元の部屋の場所から根が生えたように動かすことも出来なくなる始末。 これは死んでも妹はここに居たいのであろうと、その屋敷の下に埋めて弔った。 その後姉夫婦はよそへ引越し、屋敷も朽ちた。
「住吉姫松」と書かれた祠
お地蔵様
近隣の人も段々と気味悪がって立ち退いてしまい、最後には、ここ一帯には、住む人もなく、この塚だけが残るばかりとなった、・・・という伝説です。
班女塚
「班女塚」遠景
「班女塚」の周囲には、お地蔵様や不明の小さな祠が並んでいます、不気味な空間です。
かつては、未婚の女性がこの塚の前を通ると破談になる・・・・・という噂もあったそうです。
「延命地蔵大菩薩」「天道大日如来」
と書かれた祠
時代は下って、豊臣秀吉がこの「塚」(班女神社)を東山へ移そうとしましたが、やはり祟があり、元の場所に戻したという後日談もあります。 怖い話です。
“班女”は、前漢の成帝の寵愛を失った「班女」を、未婚のまま若くして亡くなった妹の運命にイメージに重ねたとか、言われていますが、本当の由来は不明です。
京都の都心のど真ん中に、こんな空間が今もある不思議さは
・・・・やはり、千年の都京都です。
路地の突き当たり、木の右下が「班女塚」
繁昌神社